見えるというのは、便利なこと?

生きるとは、好きな逸話が増えることでもある。かくいう私にも大好きな逸話がいくつもあり、機会さえあれば、自分の手柄のように鼻息荒く披露している。
その一つに、江戸時代の国学者、塙保己一の逸話がある。目の見えない彼が講義をしていたときのこと。風が吹き、ろうそくの火が消えて、部屋が真っ暗になってしまった。慌てる弟子たちをよそに、彼はそのまま話し続ける。明かりが消えたことを弟子に告げられると、こんな意味のことを言ったという。
「見えるというのは、不便だね」。
全盲の息子を育てている私にも、この感覚はよくわかる。息子は、部屋が明るかろうが暗かろうが、空間の形や家具の位置を脳内マップで把握し、スイスイと動く。ところが、目の見える長女は、暗闇でゴツンと頭をぶつけたりする。わが家では、ときどき「見える」と「見えない」の便利さが逆転する。
視覚全盛の時代である。InstagramにTikTok、YouTube ショート。目を開けば、情報がドパドパと流れ込んでくる。知りたいことも、見たいものも、手のひらの画面に次々と現れる。「見えるというのは、便利だね」。そう思う場面は、たしかに多い。
ところが先日、塙保己一の言葉を思い出す出来事があった。
視覚障害のある方も多く参加するイベントに、登壇したときのこと。私の前に話したのは、テレビ局に勤めるアナウンサーの方だった。全国的な野球大会の中継なども担当されているそうで、日頃から「目の見えない視聴者」のことも意識して言葉を届けているという。
その一例として、ご自身が担当した中継映像を流そうとした。ところが、映像がうまく投影されない。なぜか音声だけは、きれいに流れている。運営スタッフが二人、すかさず壇上に駆け寄る。
「申し訳ございません。映像が流れるまで、しばらくお待ちください」。
そんなアナウンスが響くなか、スタッフはパソコンやプロジェクターの操作に奮闘する。その間も、音声は流れ続ける。
ふと客席を見ると、目の見えない参加者たちは流れてくる音声にじっと耳を傾け、ときおり満足げにうなずいていた。慌てふためいているのは、見えている側だけだった。
「見えるというのは、不便だね」。
塙保己一先生の声が、江戸時代を飛び越えて、令和のホールに響いた気がした。
ところで、10月24日に「ノールックパーク」というイベントを開催する。見えない状態でゲームをしたり、お花を買ったり、ビールを飲んだりする、愉快な遊び場だ。
「見えないというのは、楽しいね」。
そんな時間を、ぜひ全身で味わっていただければ。

